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私の歯科医師としての歩み

  • 歯科医師への道

    歯科医師への道:予期せぬ出会いと決意

    私の父は歯科医師でしたが、幼い頃の私がその職業を意識することはほとんどありませんでした。父が家庭で仕事の話をすることはなく、私にとって「歯医者さん」は未知の世界でした。一方で、専業主婦の母は「世のため人のため」を教育方針としており、その言葉は私の心に深く刻まれています。

    幼い頃から歴史が好きで、中学・高校では世界史を得意科目としていました。人に何かを教えたり、人と接することが好きだった私は、将来は社会科の教員になるか、あるいは考古学を学び博物館の学芸員になることを夢見ていました。

    その考えが大きく変わったのは、高校3年生の時です。母の勧めで、初めて父の歯科診療所を見学しました。それまで歯科医師とは単に歯を削る仕事だと思っていましたが、そこで私が見たのは、患者さん一人ひとりに丁寧に説明し、不安に寄り添う父の姿でした。治療を終えた患者さんが心からの「ありがとうございました」という言葉を父に伝える光景を目の当たりにし、私は衝撃を受けました。歯科医師とは、ただ歯を治すだけでなく、その人の心をも癒し、深く感謝される職業なのだと知った瞬間でした。この経験が、私の進むべき道を照らしました。

    歯科大学への進学を決意した私に、父は言いました。

    「歯科大学に合格したら学費は出す。」

    「歯科のことでわからないこと、困ったことがあれば、先生、先輩、友人に聞き、そして本で調べなさい。」

    「歯科医師になっても、うちの診療所を継がなくてよい。自分の道を歩みなさい。」

    それは、単なる激励以上の、自立心を促す父なりの愛情と期待が込められた言葉でした。

  • 学びと出会いの大学時代

    学びと出会いの大学時代

    大学では、同級生たちと切磋琢磨しながら学問に励みました。アーチェリー部に入部し、そこでは素晴らしい先輩や後輩に恵まれました。単科大学ならではの強みで、学年やクラブの垣根を越えた交流が生まれ、そのご縁は今も私の大切な財産となっています。

    しかし、学生生活は順風満帆ではありませんでした。もともと手先が器用ではなかった私は、実験や実習で大変な苦労をしました。それでも、父との約束通り、周りの人々や書物から学び、必死に技術を習得しようと努力を続けました。

    学生時代(大学5年生後半から6年生前半)の病院臨床実習で、口腔外科の病棟見学の際、当時は講師だった、別名「鉄人」と呼ばれていた先生の姿に感銘を受けました。

    その先生は口腔外科で癌(悪性腫瘍)の20時間超えの手術を平然とこなす名医で、医局員には厳しく恐れられていたが、患者さんには優しい先生でした。

    自分の腕をひけらかすようなこともなく、困っている患者さんに寄り添う先生。その病棟見学の際、先生が執刀した口腔癌の患者さんの手術後の経過を診るために同伴させていただいた際、若干認知症もあったのかもしれないが、患者さんが急に便意を催し、ベットサイドにあった簡易トイレに座ろうとベッドから立ち上がるもうまく立てず、またうまく座れない。

    そんな中、便の介助は術後すぐなので看護師がするのが普通だが、呼び出しブザーで呼ぶこともなく、患者さんが中腰にしかなれない中、つかまる所もなかったため先生が患者さんを抱きかかえて介助しているのを見て、大袈裟でなく衝撃を受けました。難しい手術をバンバンこなす厳しい先生なのに、嫌な顔もせずに患者さんに寄り添う姿が私には輝いて見えました。

    (のちにわかるが、執刀医が術後、患者さんの経過をみることは一般的だが、中には後輩や研修医に任せる先生もいることはその時はもちろん知りませんでした。)

  • 厳しい環境で磨かれた研修医時代

    厳しい環境で磨かれた研修医時代

    私の卒業時から、歯科医師にも臨床研修制度が導入されました。私は、自分に甘い性格を自覚していたため、「ぬるま湯に浸かっていては、ろくな歯科医師になれない」と考え、あえて厳しい環境に身を置くことを決意しました。近畿圏の研修施設を5つ受験し、最終的に第一希望であった「医療法人博悠会 名取病院歯科口腔外科」に籍を置くことになりました。

    この病院を選んだのは、一般歯科が6割、口腔外科が3割、訪問診療が1割という、私が望んでいた「なんでも勉強できる」環境だったからです。また、兵庫医科大学附属病院や千船病院での外部研修を含む多彩なプログラムも魅力的でした。

    4月の入局当初は、まだ歯科医師国家試験の合格発表前であったため、医療行為はできず、見学と雑務が主な仕事でした。先輩医師の診療を見学してはメモを取り、初診患者さんの問診、レントゲン写真の読影、歯科技工など、できる限りのことをしました。帰宅してからは、その日わからなかったことをひたすら本で調べ、勉強する毎日でした。

    上司の先生から「教えてもらえると思うな。自分で見て盗め」と言われた時、私の中の甘い考えは完全に消え去りました。時には休日に父の診療所のユニットを借りて歯を削る練習をし、金属冠(FMC)をゼロから技工製作するなど、がむしゃらに技術の習得に励みました。当時の厳しい指導やプレッシャーは、今で言えばパワハラと捉えられかねないものもありましたが、その環境が私を鍛え、プロフェッショナルとしての土台を築いてくれたと確信しています。

    4月下旬に無事国家試験に合格し、晴れて歯科医師としてのキャリアをスタートさせました。名取病院には、タイプの全く異なる二人の上司がいました。

    一人は、「技術第一」という職人気質の先生。決して愛想は良くありませんでしたが、上手と評判の先生でした。

    もう一人は、院長先生。口腔外科が専門で、一般歯科はそれほど得意ではありませんでしたが、患者さんとのコミュニケーションを何よりも大切にし、多くのファンを持つ先生でした。常に患者さんの訴えに耳を傾け、現状と治療方針を丁寧に説明する姿勢は、私の理想とするところでした。

    私は、この両極端な二人の先生の「良いとこどり」をすれば、自分の理想の歯科医師像に近づけるのではないかと考え、毎日食い入るように二人の診療スタイルを見つめ、学び続けました。

    研修プログラムの一環として、兵庫医科大学病院での病棟研修では、注射や点滴、全身麻酔下での口腔外科手術の助手などを経験し、千船病院での麻酔科研修では、帝王切開や整形外科手術など、医科の最前線に触れる貴重な機会を得ました。これらの経験は、後に名取病院で口腔外科手術や全身麻酔下での手術に携わる際、医師や麻酔科医との円滑なコミュニケーションを可能にし、私の臨床能力を大きく高めてくれました。

    名取病院に戻ると、先輩医師が相次いで退職し、上司と研修医の私という3人体制での診療を余儀なくされました。頼れるのは自分だけという状況下で、診療に忙殺される日々は、計り知れないプレッシャーとの戦いでした。しかし、この苦しい時期にこそ、「技術が伴えば自信がつく」「医療従事者たるもの常に勉強し続けるべきだ」という信念が確固たるものとなり、休日返上でセミナーに参加するなど、「自ら学ぶ」姿勢が当たり前になっていきました。

  • 試練、そして理想の医師との出会い

    試練、そして理想の医師との出会い

    研修医期間を終え、勤務医として経験を積む中で、歯科診療が心から楽しいと思えるようになりました。特に義歯(入れ歯)治療では、患者さんの痛みが消え、食事ができるようになった時の喜びと感謝の言葉が、私にとって何よりのやりがいとなりました。

    入局6年目、私を温かく指導してくださった院長先生が肺がんを患われました。私は院長先生の分まで患者さんを診るようになり、一般歯科、口腔外科、訪問診療、インプラントなど、あらゆる分野を担う中で、「どんな困難な症例でも診られる歯医者さん」、すなわち「ジェネラリスト」になりたいという想いを強くしました。

    そして、父との約束通り、誰にも頼らず自分の力で道を切り拓くため、新規開業を決意。祖母ゆかりの地である伊丹市での開業を両親に相談し、準備を進め始めました。

    しかし、入局7年目が終わる頃、私を予期せぬ試練が襲います。ある朝、起床直後に左の背中に耐え難い激痛が走りました。診断は「頸椎ヘルニア」。痛みは日に日に悪化し、左手指の痺れ、腕の脱力感まで現れました。歯科医師として致命的な症状であり、私は手術による根治を決意しました。地獄のような苦しみを味わったMRI検査を経て、私はひとりの名医の存在を知ります。

    まず東京の病院を受診し、手術日も決まりましたが、術後に「後頚部痛」という、歯科医師にとって致命的な後遺症が残る可能性があると説明を受け、私は決断を保留しました。

    その夜、ホテルで休んでいると、後輩から一本の電話が入りました。「院長先生が亡くなった」という、あまりにも突然の訃報でした。私は自身の状況を説明し、職場に多大な迷惑をかけることを詫びながら、退職の手続きを託しました。

    翌日、最後の望みをかけて浜松の病院へ向かいました。事前にメールで相談していた先生は、物腰が柔らかく、患者に寄り添う姿勢を持った方で、手術への希望が見えました。しかし、診察後、再び地獄のMRI撮影を求められ、私はそれを拒否し、一度は手術を断って病院を後にしようとしました。

    その時です。診察してくださった先生が私を追いかけてきて、こう言ったのです。「木下さん、辛いのに無理を言ってごめんなさい。今日は撮影しなくてもいいから、その代わり入院前に薬で痛みを和らげてから、もう一度撮らせてもらえませんか?」と。一患者でしかない私をわざわざ引き留めてくださったその姿に、私は大学時代に出会った「鉄人」先生の姿を重ね合わせ、深く感銘を受けました。「是非、先生に手術をお願いします!」と、私は即座に応えました。卓越した医療技術と、患者に心から寄り添う姿勢を兼ね備えたその先生は、今も私の尊敬する医師です。

  • 開業、そして現在の理念へ

    開業、そして現在の理念へ

    ゴールデンウィーク前に行った手術は無事成功し、日に日に痛みと痺れは改善していきました。そしてその年の7月、周囲のサポートと数々の縁に恵まれ、私は祖母ゆかりの地である伊丹市稲野町に「医療法人社団 木下歯科」を開業しました。

    開業当初は患者さんも少なく、スタッフとの関係構築にも悩み、精神的に辛い数年間を過ごしました。しかし、「カルテ番号1番」の患者さんが開業から11年間、3ヶ月に一度、一回も欠かさず通院してくださっているように、信頼してくださる患者さん一人ひとりに「寄り添う」姿勢を貫いた結果、口コミで少しずつ輪が広がり、今に至ります。

    開業後も、私は学びを止めていません。学生時代の友人たちが誘ってくれる勉強会などを通じ、BPS精密義歯、歯周外科治療、ワイヤー矯正、小児矯正、歯の移植、インプラント治療、マイクロスコープを用いた精密治療、睡眠時無呼吸症の治療など、常に日本の歯科治療の標準以上の選択肢を提供できるよう、技術の研鑽を続けています。

    当院のモットーは「やさしく わかりやすく ていねいに」です。そしてロゴマークには、南米の民話に登場するハチドリを採用しました。森が燃えている時、他の動物たちが逃げる中で、一滴ずつ水を運び続けたハチドリのように、「自分にできることをする」という想いを込めています。

    私の歯科医師としての歩みは、これまで出会った4人の先生方の影響なくしては語れません。

    1. 大学時代の「鉄人」先生
    2. 勤務医時代の「院長」先生
    3. 私を救ってくれた「脳外科」の先生
    4. そして、私にとって最初の歯科医師であった「父親」

    彼らに共通するのは「たゆまない努力と向上心から日々研鑽を積んで得られる技術」と「医療人の前に人として患者に寄り添う姿勢」でした。この二つの柱こそが、私の目指す理想の歯科医師像であり、これからも私の診療の根幹であり続けます。

診療に対する想い

当院では、歯科医師としての「たゆまない努力と向上心から得られる技術」と、
「医療人である前に一人の人間として患者様に寄り添う姿勢」を診療の根幹としています。

  • 全世代の健康寿命を支える診療風景

    全世代の健康寿命を支える
    ジェネラリストとして

    私の目標は、年齢や性別にかかわらず、あらゆる歯科口腔外科疾患に対応できるジェネラリスト(総合診療医)であることです。お子様からご高齢の方まで、それぞれのライフステージに合わせた最適な治療と予防を提供することで、皆様の「健康寿命」を限りなく平均寿命に近づけたいと考えています。私自身が3児の父であり、93歳の祖母の治療も行っている経験から、生涯にわたる「全年齢トータルトリートメント」と「全年齢トータルメインテナンス」で、皆様の人生における健康を力強くサポートいたします。

  • 患者様の心に寄り添う診療風景

    自身の経験から生まれる、
    患者様の心に寄り添う診療

    私自身、過去に「頸椎ヘルニア」による耐えがたい痛みに苦しみ、身体的にも精神的にも疲弊した経験があります。その際、一人の医師に救われた患者としての経験から、病気に対する不安や、先の見えない状況がいかに辛いものであるかを身をもって知りました。だからこそ、歯科医師として、患者様が抱える不安を少しでも取り除けるよう、現状や治療の選択肢について丁寧で分かりやすい説明を徹底することを何よりも大切にしています。

質の高い医療を提供するための、
絶え間ない研鑽と環境整備

  • 最新技術と
    専門分野への取り組み

    常に最善の医療を提供するため、最新技術の学習と設備投資を怠りません。また、私自身が重度の睡眠時無呼吸症の患者でもあることから、「歯科」と「睡眠」の関連性をライフワークの一つとして深く追求しています。専門学会に所属し、地域の耳鼻咽喉科とも連携しながら、マウスピースを用いた治療を積極的に行い、患者様の全身の健康に貢献しています。

  • 精密で身体に
    負担の少ない診療スタイル

    無理な姿勢での治療は、患者様だけでなく術者の身体にも負担をかけます。当院では、身体に負担の少ない「pd診療(水平診療)」を取り入れ、マイクロスコープを用いた精密な治療を実践しています。これは、私自身の頸椎を守るためでもあり、より安全で質の高い治療を実現するための重要な取り組みです。

  • 徹底した衛生管理と
    快適な空間づくり

    「安心・安全・きれい」な環境を維持するため、院内感染対策を徹底しています。高圧蒸気滅菌器(オートクレーブ)2台体制や口腔外バキューム、高性能医療用空気清浄機などを導入し、感染リスクを限りなくゼロに近づけています。さらに、開業以来、3ヶ月に一度の専門業者による清掃を欠かさず行い、常に清潔で美しい院内環境を保っています。

医院のシンボルに込めた想い

当院のロゴマークは、世界で一番小さな鳥「ハチドリ」をモチーフにしています。ネイティブ・アメリカンの間では「癒やしをもたらす鳥」という言い伝えがあります。このハチドリのように、来院された患者様が治療によって癒やされ、晴れやかな気持ちで鼻歌(Humming)を歌いながら帰れるような歯科医院でありたい。その想いを胸に、私たちはこれからも患者様一人ひとりの気持ちに寄り添う医療をお届けしてまいります。